2007/12/30

ビーナスは夜 出歩く

ナーバスビーナス追記。

そうやって、人間目線での「今より良い」とか「気持ち良い」とか「楽しい」を優先してきたばっかりに、環境汚染とか、他の種族が絶滅しちゃったりとかが、起きるんだな。
反省。完全に私も今の楽を優先する悪い人間の一部でした。

力が強いから、できちゃうから。ね、いろんなことがね。


むずかしいね。できるけどやらないっていうのは時に最大の勇気かもしれない。
そこに慈しみとか愛があれば。
かなり大きなスケールにならないと、一個人ぐらいの単位じゃただの臆病者とか保守的で終わらせられそうだけど。笑

ナーバスビーナス

友達の誕生日に、温泉をプレゼントしてみた。
っていっても都内のたくさんお風呂があってスパとかサウナとかあるような、都会の温泉だけど。

そこで仲良しと裸になってぼーっとしてると、女ってみんな同じ形をしているんだということにまず気付いて驚いた。
いつもは個性とかオンリーワンとかいかにわたしたちがそれぞれ違う存在であるかばっかりに目がいきがちだけど、
同じフォルム、同じ機能を持った、ひとつの生き物のあり方でしかないんだなと身に染みて感じた。私を含めて。
本当に、全員同じ形をしているので驚いた。そりゃ男の人がたまに「女ならだれでもいい」とかそういうふうになるのはあたりまえだな、と思うくらいに。
女っていうのは役割りなんだと思う。
大きな意味で。大きな流れの中で。
広いお湯につかっているたくさんの女の人たちは、水場に集まるガゼルとか、砂あびをする象とかと本当に重なって見えた。
そういう遠い目線で見たら、私たち人間はいろんなことをしすぎてるんだろうなぁと思う。
そして、こんなにたくさんの同じ形のものが果たしてこの地球上に必要なんだろうか?と素で思ってしまった。
高校くらいのときに「神様は人間があんまりにもうまくいきすぎた生き物で作るのが面白くなってふと気付いたら作りすぎてしまって、いま猛省してるに違いない」と考えてたことを思い出した。
ふだん渋谷の交差点とかで肩が触れ合うほどあふれる人びとも、六本木に群がる人たちも、はだかにしたら必ず2種類にわけられるなんて、あまりに分け方の単位が大きすぎる、と思ってしまった。
多すぎるから、余計なことをする力ができてしまったのか、余計なことをできるくらい力があるから増えすぎてしまったのか、わからないけれど。
地球にとって人間が占める割合の丁度良いところなんて分からないし。
人間より象の方が多かったら地球はよくなる、とも限らないだろうし。一概に
ノアの箱舟みたくリセットされる日がくるのかなぁ・・・
全ての種族が一組ずつから、創める世界は今より美しいだろうか?
そんなことないな。多分。
私以外の女がいない世界なんて、嫌だもの。
恋人以外の男友達がいない世界なんて、気まずくなったら誰に相談すれば良いの?

歪んだり後退したりしつつ、世界はやっぱりちょっとずつはよくなってるんじゃないかと思う。
わからない。


お風呂上りの友達がまるで”ビーナス誕生”のビーナスみたいで笑えた。ピース。お誕生日おめでとう。
誰か一人にでも必要とされていたら、良しと思う。

2007/12/28

L'ECUME DES JOURS

家に居るときも香水をつける
お風呂から上がったらまだ暖かい肌に吹きかける
細かい粒子が散り散りに、肌に乗ったり、乗らなかったり・・・

光にかざししてみる壜は、向こう岸の壁面のガラスに付いた指紋さえ驚くほど芸術的に見せる
少し振ると香りの水面にはけらけらと笑うように、薄桃色の真珠が浮かぶ
いつも海底に沈んでいる自分達を必死に取りにもぐる人間達をけらけらと笑うように
いとも簡単に水面に浮かび上がって笑う
しかしその真珠はほんのすこしふれただけでぱちんとまたもといた海底に戻っていってしまうのだ
甘い匂いだけを残して
香水にたつ泡

本の背骨を、爪で押してみる 彼らは紙でできているから、これから何をされるのか不安がるようにぺこぺことへこんでいる

今ここにいない人のことを考えていてもしょうがない。
お、生れて初めてこの考えが出てきた。
いつもあたしはここにないことのことばかり考えてきたから

2007/12/27

ばらの花は一年中さいている

スパイスの匂いがする
今日のご飯は何だろう
自分を取り繕うのはよそうと思った
「一日中なにしてたの!」
「なにもしてません」

それでいいじゃない

今日はなーんもしてませーん。
これからご飯を食べて、寒い中を厚着してコーヒーでも飲みに行こうか。
読みかけの本を読もうか。

部屋片付けよう。

8時に目が覚めて11時に布団を出る

山村幸司の田舎医者を見てきた。短編アニメーションがいくつか。頭山、年をとった鰐、子供の形而上学、田舎医者。(変換が否会社ばかりでる)

文学とアニメーションの相性というのは根本的にとても良い気がした。
一目見たときから仲良くなりたいと思っていた友達同士のような感じだ
その底のなさ、自由さは他の表現から羨まれる。
もう、ひとつの作品の形態として袋小路に追い込まれていると思われているけど、じつは途方もなく上には上がある、というような広がり。を感じる。
自由は意識したとたんに窮屈なものになる
だから自由を謳わない両者は、他のどんな自由な表現よりも自由なのだ


最近人と人との間に流れる見えない気持ちのやり取りのようなものを、ことさら強く感じる
一緒にいる相手にプラスの気持ちを持ち続けていると、絶対にこちらに返ってくる。
ネガティブもポジティブも、思っている以上に連鎖する。
妬みも嫉みも、思っている以上に相手に伝わってしまっている
その場にいなくても。
だから今私の気持ちが重苦しいのは、かつて私が他人に対して抱いた負の感情の跳ね返りなのかな・・・とか。だれかがいまどんな気持ちであれ、私に対して何か強く思うことがあるのかな、とか。
人は一人で生きていないというのは、こういうところにだって反映されていると思う。

そしてその現象をすごくうまく、お互いが楽しい気持ちを投げ合える友達がいるというのは本当に何にもかけがえがないものだなとしみじみ思います。本当に嬉しい。
掛け値なしに相手のことが好きだというのは、それだけでいろんなことが上手くいく気がする。そういうひとがいるだけで。

私がほんとうにひとりぽっちだったら、もう今年は何回も地獄までまっさかさまだったと思う


腰すえていきます。来年は。
キスした後に 「なんてね」 なんて


上の句が思いつかない

2007/12/23

理由だらけのものに囲まれて生きるわたしたちは
理由のないことで喜ぶ

こんなにも


どこに行っても、ふたりはふたりきりになれた
例えば何か真実を見つけて。
それが綺麗に晴れた午後だとして。
今の気分に会った音楽が流れていれば、映画だったらここでエンドロールになるだろう。
でも人生にはエンドロールを流せない
自分でしみじみしても、廊下の外では何食わぬ顔してお母さんが掃除機をかけている
エフェクトがかかった映画のスクリーンの中だったら美しい横顔かもしれない私も、
実際にはおきぬけのぼさぼさの髪でパジャマを着た、ただの寝坊助だ。

本当、どうでも良いことばっかり考えてるなぁ たいしたことない私だなぁ
でも一秒だって変えたくない。