2008/04/27

真夜中は真昼間に会いたいんだ

(あなたの人生が私だけじゃないことはわかってる)
歌の歌詞みたいだ


toeを生で聴いてきた。
昨日ライブに行ったことで、もう家でtoeを聴いても意味無く落ち込むことはなくなった。むしろ昨日からずーっと聴いて、あたたかい気持ちになっています。ありがとう。

世の中に自分にとって意味を持つものを増やしていくのが人生じゃないかな。
全然知らないおっさんが奏でる、向こうだって私のために演奏してるんじゃない音楽にこんなに振り回されるなんて、やっぱり生きてなきゃできないことだ。
世界っていったいどうやって始まったんだろう。この複雑さが最初から成立していたんだろうか。だとしたらすごい

「何を見ても彼を思い出す」って言ったのは私のどの友達だっけ?

対バンしてたDO MAKE SAY THINKは、ライブがまるで一日のめぐりみたいだった。
最初の方すっごいにたような曲ばっかやって、「次の曲もあたしを退屈させたら出てくぞ!」と念じてたら、急に色がかわってピアニカをもった人がフロアに降りてきて、そこからの彩が凄かった。
だんだん夕暮れが近づいて、家路について、そして夢を見る・・・真夜中に蒲公英の夢を見るのはなんてつらくさびしいんだろう。真夜中に真昼間の夢を見るのはなんて悲しいんだろう。
それでもみてしまうんだ。真夜中のサーカス。わたしのために。ポップコーンいかが?
それもいつか終わって、また毒々しい朝がやってくるんだ。暴力的に、光が降り注いで、音楽はmaxで鳴る朝。
死ぬ時にこんな音楽が流れてたら良いなぁと思う曲たちでした。
ものすごく強い光が上から降り注ぐ中で、世界中の楽器が力強く鳴る中で、笑顔で手を振って死にたい そんなふうに。

ああ昼の次は夜が、夜の次は朝が、必ず来るんだ。それは約束されてないけどでもそうやってずっと何億年も続いてきたんだ。・・・ということにはっと気付いて、またすこし生きやすくなった。
”明けない夜はない”のねー。
夜は夜のことだけを、昼は昼のことだけを、考えて生きてゆきたい。
そうしないと引き裂かれた恋人達をいたずらに期待させるだけだわ。


久しぶりに(勝手にしやがれぶり)ライブ行ったけど定期的に行きたいな。中学高校のときは週1くらいで行ってたから、ライブから色んなことを学んできました。 学校より学校だった。
当時と同じライブハウスに全く違う状況で今いて、本当に不思議な気持ちになった。
ただ空気が震えて楽器が鳴っているだけなのに 音って謎ね

2008/04/26

もう家でます

大人になるって、自分を貫くことが怖くなくなることかな

DRIVE

実用的なことが好きだ。なんでも意味を持たせてしまう
だから自分に必要ないと思ったことにはとても冷たいし、無関心で離れていってしまう
それってとてもつまらない気がする
何の意味も無さそうなことから意味を見出すのは大好きだけど、何も見出せないからと言って見限っていくのは短絡的だね

だから、使えない自分は大嫌いだし面白いことを思いつけない自分はまったく無意味だと残酷に思ってしまう
そんなふうにおもってもなんの解決にもならないよ。

でも前みたいに絶望したりはしない。無理とも思わない。ただただ難産。けどいつか会える

優しくしようと思う先からあまのじゃくになってしまうね

どんな自分になりたいか、じゃなくて、何がしたいか、でもなくて、なにができるのか、なにを与えられるのか。今。ここで。

2008/04/24

うんと愛す

今日もう一度、閉館間際のgggに行った。
そしたらすっごくちいさいおじいさんと、そのおじいさんの肩くらいしかまでしかないこれまたちいさな腰の曲がったおばあさんがふたりで展示を見ていた。
おばあさんは薄くなった髪の毛を綺麗な金色にそめていて、それが白髪からすごく自然にグラデーションになって肩にふうわりとかかっていた。コートの色は曇った青空のような青灰色。とてもきれいな
おじいさんはそんなおばあさんにいろんな作品を指差しながら、絶えず色んなことを話していた。おばあさんもそれについて明瞭に応えてい(るようだっ)た。
そしておばあさんが何か言うたびにおじいさんは心底楽しそうに笑って、肩を優しく抱くようにしてそっとおばあさんに触れるのです。
ふたりはずっと寄り添って、図録まで眺めていた。
あの二人がどんな関係なのか分からないけれど、過去に若かったころも一緒にいたと仮定して、その時のふたりを思い浮かべようとしてみた。

未来は見えない。けど、あんなケースに遭遇してしまったら、目指すしかないでしょう。

大切な人を幸せに出来たらどれほど嬉しいことでしょう。

雨にふられてあまやどり、のつもりの展示会場で思いもよらぬ大きな生きる展示に出会ってしまった。というおはなし。

2008/04/23

天国があるとするならばここ

その場で考えてその場で投げ返すというのは、そしてその発言の精度を保つのは、なんてむつかしいんだろう。

自分の考えの表現のありかたとしてはこうやって文章で表すのが基本的にいちばんしっくりくるので、この伝達速度の遅さに慣れてしまっている私は突発的な対応に弱い。

話を聞いてそれに最適な答えを投げる努力をめーいっぱいするけど、往々にしてあとになってから、ああいえばよかった、こういえばよかったといつもいつまでも考えてしまう。

特に自分のことを話すのは苦手。自分の中の水がめにたまってたっぷりと発酵しているいつでも汲める思想とかならいくらでもいつでも取り出せるけど、その場で、あまり考えたことのなかった自分の側面について話すといつもとんちんかんなことを言ってしまう。気がする 許せ、友よ。
全力は尽くした。まぁ私側の話はどうでもいいからね。互いに幸あらんことを*

2008/04/22

プリーズ モア ニュー シング

過去の自分の日記を読んでて思ったんだけど、好きな家事が靴磨き、洗濯っていう話題を読んで、あと皿洗いもわりと好きなわたしは、創造よりもリセット的な作業を好むのかなぁと思った。
そういう日常に散らばる小さなリセットは、毎回が小さな埋葬とも言える。汚れを、古きを、悪しきを、っつってね。
ニュートラルを創造する(カッコいいなぁ)ともいえるかもしれないけど、やっぱり創造よりは破壊を、好む性格なんだろうなぁ。
たしかに「既成概念を覆す」とか言われるとどうにもこうにもやる気がわいてしょうがなくなるもんなぁ。
でも破壊がすきなんて不穏だわ。いやだわ。そんなのいやいや。オヨヨ
まぁ人間関係には全く当てはまらないけど。6年以上付き合わないとその人のことを本当に判断できないくらいだし。一生モノのおつきあい。です よ(呼びかけ)

とりあえず自分のことをフラット制作係、と呼ぶことにします。もしくは新しい地平捜索隊。
6頭のシベリアンハスキーが引く大きなそりに大切なひとたちを抱えて乗せて、しがらみが舞い吹雪く中をりんりんと走ってゆこう。

2008/04/19

うん!







やさしい人になりたいなぁ。

2008/04/18

京都行きたい いますぐに

良い本とか素晴らしい教授の話を聞いて、ティンカーベルの魔法の粉のようなものをかけられたような気になってちゃいかんなぁと思う。
教授や著名人が素晴らしいゆえんは、その人が一人の人間であるというところにあると思う。んだ。
こないだはじめて、「教授も疲れたり授業出んのだりーとか思ってるのかも・・・!でもがんばってきてるんだ!大人だから!」ということにはっと思い当たって、なんだか私の人生の永遠のテーマである学校嫌いのとげが少しやわらいだ気がした。
大学は特にそうなんだけど、学校という機構のその揺るぎなさ、確実さは私を不安にさせるものだったのですが、その中で動く人々はすべてが人で、身体のほとんどが水でできたゆらいでいる生き物なんだ、みんな・・・・とまぁべつにそこまで考えてないけど、でも教授も人間なんだ、って思うことだよね。まず。
人生を積み重ねて、その人の口から出る言葉は私たちが今日常で話す言葉の延長線上にあるわけで。
そこがすごいんだ。会議やプレゼンや授業の時だけスイッチがONになるデザインマシーンではない、ということ。
疲れたり悲しくなったり、人生に喜びを見出したりを”いまだに”してるんだということ。
彼らも、人生の途中なのだということ。
個人的にわりと大きな発見。射程距離は定まった。


あはん


個人的な資産・・・例えば思想とか、見つけた良いものとか、そういうのを他人に”惜しみなく”与えられる人になりたいと心から思った。そんなものないんだけど、でも自分が大切にしていること、はあるから。まだまだ上があるよってことを、ポジティブに実感しながら毎日を生きたい。そうしたら貧相な宝箱にしがみつくこともなくなるだろうから。そんな今日でした。天気は飴。
打算とかいらないよ 全部循環させてきたいよ


美大生ブログランキングを見てたらみんなわりと笑いを目指してて、そういうの見るとこういう日記書いてるじぶんに心底うんざりする。うんざり。うんざり、ってなんだろう。

2008/04/17

いまいち

ブログの雰囲気とあってないタイトルですね。やりかたはやっとわかった。ので、後でなおそ。


ブックデザインの先生が、「他人の作品はその人のウンコですから。他人のウンコ追いかけててもしょうがないわけですよ」といっててまさに目からウロコ。
うん。
虹色のウンコに目を輝かせてる美大生、とかなんかアホらしいなぁ。
毒にも薬にもならないことを考えるのがすきです。


最近夢をよく覚えてる。現実世界への教訓がたくさん含まれている気がして耳が痛いです。
うん。

ダイエットを決めた途端、スタバのラズベリーマカロンが復活して、それが現実問題いちばんの悩みといえましょう。ツライ あれだいすき。なんですもの

2008/04/13

ジャンルはLatin

嫌いなものを前にして、何故嫌いなのか、というのをよく考える。
すると、嫌いという感情は分解していくと、最後に悲しみが残るのだ


鬱々としそうな時ほど、発狂しそうな時ほど、手を動かそうと思う
アウトプットにすくわれることはたびたびある。


これから用事をすませて(本を買って直してもらったアクセサリーを受け取ってお洋服のお金を払う そして街を見る)、また家に戻ってこよう。行って来ます。


私の部屋にはボサノヴァがたいへんよく似合うということに気付いて、とても嬉しい

2008/04/11

DOMINGO

日曜日、というタイトルのCDを買った。はやく日曜日にならないかな

特に書くことなし。おおむね平和。宇多田ヒカルの中毒性と浸透性はすげえなぁ。


服の貴賎は着ているときの生活の濃さでしょう。高い服だからって特別扱いはかわいそう。才能のある子を遠巻きに見てるようなもんだ。
どんなに良い服を着てても芝生で転がることをためらわない。
そういうふうにいくのをやめないでいたいです。

2008/04/10

お風呂が沸くまで

書こうとおもう。


このあいだ閉園間際の多摩動物公園に行って、昆虫ユートピアとペリカンと象とフラミンゴだけ見て帰ってきたんだけど。
昆虫ユートピアでコオロギのケースがあって、1ヶ月、2ヶ月、って成長順にわけられていて、歩いてみているとだんだんそいつらが大きくなっていっていく様子が一網打尽にパノラマでわかるという、何年分もの変化の重みが一瞬のその場で並べられているというなんとも人間の横暴さが分かるような展示方法だったんだけど、最後のほうのほぼ大人のとことかもうびっしりいる感じが怖くて一種の嫌がらせだった。コオロギにも人間にも両方
おとなになったやつら全員交尾してたし。
で、そのキャプションに「孤独相(たぶんもてなくてパートナーがいないダメコオロギ)は緑色をしている」って書いてあって、へぇ~便利、と感心しましたよ。
人間でも、淋しかったら緑色になる、とかあったらいいのにと思った。悲しませたくない人をそれほど長い間悲しませないですむ。
「あなただけは、わたしの心の緑色を読み取って!」というのが人間の永遠のテーマなんでしょうか。さあ?

帰りたがってる象とか、なんか親近感わいたなぁ。
また行きたい。

2008/04/04

よけいなおせわ

みんな。階段は、人間が上に行くために作り出したものだって思ったこと、ある?
わたしは、なかった。
上に行きたくて、作ったのかぁ・・・・・・・・・・・ものごととものごとのたんなる中間地点にすぎないと思えることでも、揚げ物のつなぎの卵にも、細胞の間のシナプスにも、休み時間にも、哲学があるんだろう な、きっと


人を、燃やすなんて。
この別れは、強すぎる と思った 精神の介入の余地が全くない完全なる決別だからこそ、精神的な膜でその大きな欠乏の周りをそっと覆うのだろう。


迷信なんて、怖いことを増やすだけじゃないかと昔の人に憤慨してみる
さっきうっかり塩を踏まないで家の中に入ってしまって、どうしようと青ざめた。
そんなの迷信だって言ってしまえばおしまいだけど、そんなふうに思えない私はまた抱えなくていい恐怖をベッドに招き入れることになる。
私には怖いことが多い。いつも怖がってばかりだ。
もっと強くならなくちゃ、強くならなくちゃと言い聞かせながら、霊柩車が通ると強く親指を手のひらで覆い握り締める。

さ、履修登録の紙書こう
今日は4月4日、4が合わさって、しあわせの日。

2008/04/03

ばら色の涙味

わたしの好きなひとは、わたしの好きなピンク色の、プラスチックの作り物みたいな、ぼたんの花に似ている。
家の近くにあるその花の木をいつもどおり眺めていたら、ふとそのふたつの気持ちがだぶったことに気付いた。


おばあちゃんのお兄さんの御通夜に行ってきて、読経を聞きながら、人が生きて死ぬということについて考えた
大きすぎて持ちきれない。やっぱり人生というのは流れ流してゆくものなのだろう。
でも死に顔を見たら、本当に人形のようで、死んでしまったら、それはもうその人じゃないんだと痛烈に感じた。だからこそ焼いたり埋めたりして、魂と身体がばらばらになったままにならないように、故人を愛する人たちはいろいろな弔いをするのだろうね。
私たちはまだ若いから、無造作に他人のことをけなしたりも尊敬したりも出来るけれど、そうやって生きているうちに出会えてどういう形でも影響を与え合えるというのは、どれだけ壮大なことだろうと思いました
怖い。歳をとるのが、楽しみでしょうがないと共にものすごく怖い。
最近、自分がまだ順序的に死を意識しないでいい年齢だということでものすごく安堵する。
自分はなんて傲慢で自由で独りよがりなんだろうと思った。
そしてそれが許される時期というのはほんの一瞬なんだろうということも同時に理解した。
また怖くなる。



でも 大好きな人たちには、一回離れても、100年でも待つから、もう一度会いたいなぁ。





人に気に入られようとして一生懸命になるのは、もうやめよう。

牛と桜

おじいちゃんとおばあちゃんの金婚式がこないだありました。
古い、シャンデリアと絨毯なんだけどどこか日本ぽい・・・・垢抜けきらない、でもそこがいいホテルの写真館で写真を撮って、ご飯を食べました。
おじいちゃんとおばあちゃんが二人で最初に写真を撮って、それを見たらなんだか、歴史がつくられる瞬間を、見たような気がしました。
こうやって、未来のためにすることがあるんだ、人は・・・・と、それは保険とか犠牲とかそういう重苦しい話じゃなくて、自分を明日へつないでいく祈りのような行為が、人間はできるんだ・・・・と思ったり。
それを誰かが明日受け取ってくれたなら、これほど幸せなことはない。
あのふたりの写真を、元気で動いている姿が前後にまだあった瞬間の写真を、10年後の私はどんなところで誰と見るんだろう。どんなこと、してるかな。


今を手放すことが怖くて怖くてたまらない私だったけれど、今日、家に帰って夜ご飯をたまたま1人で食べてたら、唐突に、このまま終わるわけにはいかない、と思った。
冗談じゃない。後ろ向きに、薄ら笑いで生暖かい場所に逃げ込み続けるなんて
健康的にがんばろう。